志望理由書が「誰にでも当てはまる文章」になってしまう理由

志望理由・自己分析

総合型選抜の志望理由書を読んでいると、「内容は間違っていないのに、なぜか印象に残りにくい文章」に出会うことがあります。往々にして、文章の中に「その人自身」が見えにくくなっていることが理由です。

「地域社会に貢献したいです」「多様な価値観を理解したいです」「人との関わりを大切にしたいです」など、高校生のみなさんがよく書くフレーズがあります。

どれも、間違ったことではありません。ただ、こうした一般化された言葉だけが並ぶと、“誰にでも当てはまる文章”になりやすいことがあります。

志望理由書を書き始めると、多くの高校生は急に「ちゃんとした文章」を書こうとします。「幼いと思われたくない」「賢い表現を使わなければいけない」など、そういった思いが出てくるからだと思います。

一方で、そのような表現にばかり頼りすぎると、本来その人の中にあったはずの感覚が、少しずつ消えていきます。

例えば、本当は「後輩との距離感がうまくつかめなかった」ということが、自身の中に強い経験として残っていたとします。

・どう接すればいいのか分からなかった。

・周りは普通に話しているのに、自分だけ妙に気を遣ってしまった。

・そのことが、なぜかずっと気になっていた。

本来、その“気になっていた感覚”に、その人らしさがあります。

ただ、書いている途中で不安になることがあります。「こんなことを書いていいのだろうか」「もっと立派な話にしないといけないのでは」…そう考えているうちに、文章は少しずつ“安全な方向”へ修正されていきます。

つまり最終的には、「コミュニケーションの大切さを学びました」という文章になる。

もちろん、間違ってはいません。ただ、最初にあった迷いや戸惑いは文章から消えています。読む側からすると、「正しい内容」は書かれている。でも、「この人」が見えなくなっている。こうして印象に残らない文章ができあがるわけです。


これは、別に高校生だけの問題ではないのだと思います。

人は、「評価される場」に立つと、“正しそうな言葉”を選び始めます。特に学校教育の中では、「きれいにまとめること」が求められる場面が多くあります。

作文でも、発表でも、感想文でも、「最後は前向きにまとめましょう」という空気がある。そのため、多くの高校生は無意識のうちに、「ちゃんとした着地」を探します。

すると、「自分が実際に感じたこと」より、「評価されそうな言葉」の方が前に出てくるようになります。


ただ、総合型選抜で大学側が見たいのは、“優等生らしい文章”だけではありません。

むしろ、「この人は、なぜそのことが気になったのだろう」「なぜ、その経験が心に残っているのだろう」という部分だったりします。

例えば、「地域社会に貢献したい」という言葉そのものが悪いわけではありません。ただ、その言葉だけでは、その人がなぜそう思うようになったのかが見えません。

  • 小さい頃に見た風景なのか
  • 家族との経験なのか
  • 学校生活で感じた違和感なのか
  • ニュースを見た時の感情なのか

そこに、その人自身の“実感”があります。

総合型選抜では、素直な実感が重要になることがあります。


志望理由書を書いていると、多くの高校生は、「これでは浅い気がする」と不安になります。

その不安は、とても自然なものです。ただ、その不安から逃げようとすると、人は“抽象的で正しい言葉”に寄っていきます。

すると、文章はきれいに整う。けれど、同時に“個人”も薄くなっていく。これは、志望理由書でよく起きることです。


本当にその人らしい文章というのは、必ずしも「立派な文章」ではありません。

むしろ、

  • なぜその経験が引っかかったのか
  • なぜ今でも気になっているのか
  • なぜその分野に惹かれるのか

が見える文章の方が、読んでいて印象に残ることがあります。少し不器用でも、その人自身の感覚が残っている文章には、“温度”があります。


総合型選抜では、自分について言葉にする場面が多くあります。

その中で難しいのは、「正しいことを書く」ことではなく、「自分が本当に感じていること」を整理することなのかもしれません。

志望理由書を書く時間は、単なる受験準備ではなく、「自分は何に引っかかり、何に惹かれているのか」を考える時間でもあるのだと思います。